秘話 その4

「アヤメ平と三条の滝を見ずして尾瀬を語るなかれ」※冨士見小屋は現在営業しておりません

「天上の楽園」と呼ばれたアヤメ平から、徒歩10分の「冨士見小屋」を営む萩原始さん。 文字通り「尾瀬で生まれ育った」経歴を持つ萩原さんにお話を伺った。
冨士見小屋

萩原 始 Hajime Hagiwara

尾瀬で生まれ育つ

萩原さんを囲んでの家族写真 (萩原さん提供)
尾瀬から連想する場所にアヤメ平があります。天上の楽園と呼ばれた湿原からは、東西に至仏山と燧ヶ岳がそびえ、多くの登山者を魅了してきた場所です。そんなアヤメ平から徒歩10分の冨士見小屋は、古くから登山者を迎えてくれた場所でもあります。その小屋主として尾瀬で生まれ育った経歴を持つ、萩原始さんにお話を伺いました。 「冨士見小屋は私の祖父である萩原和市が、尾瀬で釣りをするための中継地として、昭和8年に建てたのが始まりです。和市の息子、つまり私の父・武治も関東水電の仕事で尾瀬ヶ原の水電小屋を管理しており、尾瀬と関わりがありました」 「父は水電小屋管理のため、尾瀬で越冬していました。当時は建物も着物も粗末でしたから、越冬には想像を超えた苦労があったと思います。あまりの辛さにケツ割りといって途中で逃げてしまう人も多かったようです。その中で、私は昭和9年に水電小屋で生まれました。父が産婆を行ったそうです」と萩原さん。当時の尾瀬の様子はどんなものだったのでしょうか。 「尾瀬が有名になる前の小屋を訪れる人といえば、狩りにやって来た檜枝岐マタギでした。お互いに現金を持つ時代ではありませんでしたから、宿泊費の代わりに動物の肉や毛皮で物々交換をしていました。私にも毛皮で手袋を作ってくれたのを覚えています。我が家は戸倉で畑を作り、水電小屋と冨士見小屋を管理していたので、祖父と父は三重生活をやっていたのでしょうね」

皇太子殿下とともに山スキー

三階建てだった頃の冨士見小屋(萩原さん提供)
昭和27年2月、それまでは稀に調査の人が泊まるだけだった冨士見小屋や萩原さんに転機が訪れます。「皇太子(現天皇陛下)が尾瀬でスキーを楽しまれるので、冨士見小屋を中継地にしたいと頼まれました。山スキーの中継だけでなく、尾瀬全域と無線の送受信ができる地の利を活かしてのことでした。このため小屋を増築して部屋を3つ作ったりしました。小屋管理のためにスキーは履き慣れていましたが、父がスキーは身を立たせるからと真剣に教えてくれたので、殿下が尾瀬沼方面からやって来る日には、私や村の若者で雪を踏んで道を作りました」

尾瀬も人間も同じ

萩原武治さん(萩原さんのお父さん) が発見し、命名した竜宮。
尾瀬で生まれ、長年尾瀬を見つめてきた萩原さんに、現在の尾瀬はどう映っているのでしょうか。 「人間が年寄りになるのと一緒で、尾瀬も年を取っています。湿原にはヤチヤナギやヤマドリゼンマイが増え、樹木が大きくなりました。アヤメ平の池塘の底には白い小さな軽石が一面にあり、緑の湿原と青空にはさまれた白い池塘が綺麗でしたが、今では泥がたまり、ホタルイが繁茂して白い池塘を見ることはできません。また父が発見し名前を付けた竜宮も、当時は川水が大きな渦を巻いて湿原に飲み込まれていましたが、これも周りの植物が迫り出して小さくなっています。昔を知る者にとっては寂しいですが、成長し齢を重ねてゆく自然も、また自然なのだと思います」と感慨深げに萩原さん。

尾瀬を愛するということ

かつての楽園の姿を取り戻しつつあるアヤメ平。
70歳を過ぎても冨士見小屋の主人として登山者を迎え続ける萩原さんが最近感じたことがあるという。 「ここ数年は尾瀬に来る人も減っていますが、今の登山者は本当に尾瀬が好きなんだと思います。ある時、白尾山方面から来る人が多いので声を掛けると、白尾山にかけての開放感のある景色が好きで、何度も来ていると教えてくれました。新しい尾瀬の楽しみ方、歩き方を教えられた気がしました」 「あれだけ荒れてしまったアヤメ平も献身的な復元作業で甦りつつあります。奥の院と呼ばれた横田代と合わせて歩けば、尾瀬を違った視点で見ることができます。昔は、アヤメ平と三条ノ滝を見ずして尾瀬を語るなかれと言われたほどの名勝。今こそ、この言葉が甦る時代かもしれません」萩原さんが誇らしげに話してくれました。
富士見小屋 データ
※2023年7月現在、冨士見小屋は営業しておりません