秘話 その7

「尾瀬の変化を感じるココロ」※2015年4月時点の情報です

尾瀬ヶ原の中央部に位置する竜宮は尾瀬各地からの木道が行き交う十字路で、広大な尾瀬ヶ原が一望でき、湿原植物が咲き誇るハイカーに人気の場所です。 そんな竜宮十字路で、古くから山小屋を営む龍宮小屋の萩原澄夫さんにお話を伺いました。
龍宮小屋

萩原 澄夫 Sumio Hagiwara

竜宮に小屋を建てた理由

龍宮小屋露天風呂(昭和26年代、竜宮小屋提供)
「私の曾祖父は福島県の檜枝岐村出身でしたが、片品村へと婿入りしたそうです。当時の尾瀬は地元の人が入山し、自由に小屋を建てては魚や山菜を採る場所だったと聞いています。本当の理由は分かりませんが、檜枝岐にも片品にも関わりのある曾祖父が、両県の県境である竜宮に小屋を建てたのは自然な成り行きだったのではないでしょうか」と雪の降る片品村の自宅で、萩原さんは話し始めてくれました。 「山小屋としては昭和22年に祖父・善作が始めたと聞いています。場所は今の竜宮十字路付近でしたが、その近くで竜宮現象が見られ、既に竜宮と呼ばれていたことから『龍宮小屋』と名付けたようです。現在の位置に山小屋を曳いたのは景観上の理由からだと思いますが、年代ははっきりとしません。初代の山小屋は昭和38年の除雪作業中に焼失し、現在は3代目の建物です」と昔の話を思い起こしながら話す萩原さん。 「火事の時は厳冬期の尾瀬で全ての物が燃えてしまい、約4.5km離れた山ノ鼻へ助けを呼ぶために戸板を使ってラッセルをしたんだそうです。そんな苦い経験もあってか、龍宮小屋はランプを全廃しました。父は今でも火の取扱いに慎重ですね」

幼少時代から小家主になるまで

現在の龍宮小屋も萩原さんと同様に3代目
萩原さんに幼少時代の尾瀬の記憶を伺いました。 「記憶はありませんが、最初に尾瀬に行ったのは3歳の時だったそうです。夏休みは幼少時代であれば遊びに行き、学生時代であればアルバイト目的で、毎年必ず尾瀬に入山していました。幼い頃の思い出では、当時単線だった木道で、対面した登山者とジャンケンをして道を取り合った事や、夕立後の軒下にウジャウジャいたドジョウを捕った事が印象に残っています」と嬉しそうに話す萩原さん。そんな萩原さんが先代から龍宮小屋を任されたのは22歳の時だったそうです。 「当時はまだ嫌々ながらという状態でした。子どもの時から手伝ったり、過ごしてきた山小屋なので勝手はわかるけどしんどかったです。そんな時に助けてくれたのが従業員です。あるベテランの従業員が自分の子どもを連れて来ていた頃は、働いてもらう代わりに、私がその子の面倒を見ていた事もあります」と振り返る萩原さん。しかしそんな従業員との連携が、現在の龍宮小屋のアットホームな雰囲気を作っているという。 「自分が辛かった経験もあって、従業員を叱るのではなく、いかに前例に捕らわれず、動きの良い働きをしてもらえるかを考えるようになりました。普通の山小屋であれば帳場(受付)は小屋主が仕切りますが、龍宮小屋では全ての従業員が何でもできるようになることで、私も余裕が生まれ、小屋を訪れた登山者とコミュニケーションを楽しめるようになりました。この小屋で頑張っているのは従業員なんですよ」と萩原さんは顔をほころばせながら龍宮小屋の経営観を話してくれました。

尾瀬の変化を感じるココロ

若くして山小屋主となり、口にはしないが様々な苦労をされた萩原さん。意外にも小屋主としての初任給で買ったのは「尾瀬を撮影するためのカメラ」だったという。 「龍宮小屋は著名な写真家が以前から宿泊していましたが、私は常に尾瀬にいる者として、尾瀬の変化を記録するために撮影を始めました。最初は風景を漠然と撮影していましたが、やがてテーマを決め、場所を決めて尾瀬を見ることで、僅かな変化を感じられるようになりました。撮影中に白い虹を見た事も感動的でしたが、ある植物が毎年少しずつ移動している事を発見した時も同じ感動をおぼえました」と、萩原さんの尾瀬を見る視点を感じたひと言でした。そんな萩原さんにとって、今の登山者はどの様に映っているのでしょうか。 「みんな歩くことや目的地に到着する事にしばられてしまっている。本当に尾瀬を感じたいのであれば、時間にしばられない歩き方をしてもらいたいですね。キーワードは『倍時間・倍楽』です。地図に書かれた所要時間の倍を使って楽に歩くこと。時には同じ場所にたたずんで、尾瀬の自然の移り変わりを見てもらいたいですね」と萩原さんは穏やかな口調で、尾瀬の真髄に触れるアドバイスを教えてくれました。
龍宮小屋 データ
問い合わせ先 : 090-8314-3193 Website : 尾瀬国立公園「尾瀬」尾瀬ヶ原龍宮小屋のページ